エルサレムは、春から秋にかけて雨も降らずにカラッとした空気に包まれる。標高約800メートルだ。夜には昼の熱気が消える。毎日がビール日和だ。エルサレム特派員の仕事に一区切りをつけ、まずは一杯だ。中東の夜空に浮かぶ上弦の月を見ながらグラスを傾けるのもいい。知人宅で休日にバーベキューを楽しみながらビールで口を潤すのもよし。自宅にベランダがないのが不満だった。窓を開け放っても、屋外の開放感にはかなわない。

開放的な空間でビールを飲みたい。日常会話レベルにとどまっているアラビア語も磨けるのでないか。そんな思惑もあって、ヨルダン川西岸で「別荘」を探そうと思い立ったのが15年も前だった。

条件はまず、ビールが飲めるような快適なベランダかテラスがあること。豊かな太陽の恵みの下で、家庭菜園ができるような小さな庭も欲しい。それに、アラビア語を習得するため、適度な近所付き合いが期待できそうな小さな村が理想だ。支局から30分程度の近距離にあり、イスラエル軍の検問所がないことも不可欠だった。骨休めの休日に、検問所で兵士とのトラブルは勘弁願いたい。

色々と走り回ったところ、エルサレムから北東に20キロほど走ったヨルダン渓谷を望むラムーンという村にいい物件を突き止めた。知人のパレスチナ人に紹介してもらったのだ。集合集宅のベランダからは、はるか眼下に横たわる死海の水面が神々しい輝きを放っている。ヨルダン川西岸の丘陵地帯を緩やかにうねる道路に沿ってオリーブの畑がところどころに点在するほかは、ベドウィン(遊牧民)の羊飼いが群れを追って荒野を歩いている。アパートの隣は荒地だった。家主は、そこで鶏を飼うなり、耕して畑にするなり自由に使っていいと言う。

喜び勇んで、隣村のタイベにあるビール醸造所にビール1ケース買いに走った。

「やっと別荘を見つけたよ。自然の中でビールを飲む夢が叶う」と懇意にしていたオーナーのナディム・ホーリー氏に報告した。すると意に反して「ビールを飲むのが目的なら、その村はやめておいた方がいい。保守的なイスラム教徒の村だから、ばれたら追い出されかねない」と忠告してきた。そういえば、そうだ。イスラム教では、飲酒はタブー視されている。

ホーリー氏は、親戚の老婆の家の1階が空いているはずだと言って、話をつけに歩きだしていた。オリーブ畑を抜けたところにある一軒の老婆は、毎月少しでも収入があれば助かるという。そんなわけで、キリスト教徒の村タイベに別荘を借りることになった。理想的な環境だった。

壁はところどころひび割れて黒ずみ、窓からは隙間風が吹き込むなど部屋は老朽化していた。ただ、庭には菜園スペースがあり、オリーブやレモン、イチジク、ザクロ、オレンジの果物が植わっていた。それに、パセリやセロリ、ザータルやミント、マラミーヤなどパレスチナの家庭で日常的に使うハーブもある。 老婆は、料理に使ったり、紅茶に入れたりして自由に使ってくれと言う。なんといっても魅了だったのは、地ビールの醸造所が至近距離にあることだ。オリーブ畑を抜け、わずか30メートルほどの距離にあった。いつでも新鮮なビールが飲める。しかも、当時は中東で唯一の家族経営の小さな醸造所のこだわりのビールだった。

念願叶って小さな部屋を借りたのは、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラの東郊に位置するキリスト教の小村タイベである。わずか1500人程度の小村だ。聖書時代にまでさかのぼる歴史を持ち、聖書名は「エフライム」という。1187年ごろに村を訪れたイスラム指導者サラディンが村民からもてなしを受け、「善良で親切な人々」を意味する「タイベ」という名を村に与えたといわれる。

1948年のイスラエル建国や67年の第3次中東戦争で村民約7000人が海外に移り住み、今は空き家が目立つ寒村だった。ヨルダン川西岸の大地がヨルダン渓谷に落ち込む、ごつごつとした石灰岩の緩やかな丘陵にへばりつくように、石灰質の白やベージュ色の石壁に覆われた瀟洒な建物が並ぶ。庭にはブドウやイチジクがたわわに実を結んでいる。教会の尖塔が大空に伸び、鐘の音が乾いた空気を心地よく揺らす。

醸造所周辺では、ビールの仕込み時間になれば、蒸された麦芽の甘くてこうばしい香りがオリーブ畑に漂う。この村ではイスラエル軍による侵攻もなく、ゆったりとした時間が流れていた。もちろん、都市に行くためには幾つもの検問所を抜ける必要があるなど村人に紛争が重くのしかかっていた。静かなのは、紛争や経済停滞を嫌って移住してしまった者が多いためでもある。それでも、村には心地よい空気が流れていた。

当時、キリスト教徒の人口はパレスチナ人の約3%と言われていた。パレスチナ人の大半は宗教上アルコールを禁じられたイスラム教徒であり、ビール醸造所にとっては厳しい経営環境である。西岸の都市へブロンではごみとして外にビール瓶を捨てることもままならないと、国際援助団体で働く外国人は嘆いていた。部屋にまとまった量の瓶がたまると、キリスト教徒が多く住む西岸ベツレヘムのゴミ捨て場にまで車を走らせて捨てに行くのだとか。

保守的なイスラム教徒が多数を占める地でビールを売り込むのは、決して楽ではない。パレスチナでは1993年のオスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)後、海外に逃れていたパレスチナ人が大挙して帰還した。約1万5000人が和平への期待を胸に、海外で得た資金を投じてパレスチナにホテルや飲食店などを次々と開業した。米国のボストンに住んでいたホーリー氏の一族も、酒販売チェーンや不動産業で得た資金を元手に、故郷パレスチナのタイベに自らの醸造所を持つ夢を叶えた。祖国のパレスチナに1つぐらいうまいビールの銘柄があってもいいという熱い想いが結晶した結果だ。

ナディム氏は米国在住中、ビールの博覧会があると聞けば、米国内や世界に足を運んだ。ビール好きが高じて醸造セットを買い込み、自宅でビールを趣味で造っていたという。欧米諸国ではビールを自宅で醸造する文化がある。様々なタイプの「ビールの素」が売られており、レシピ通りに自宅で仕込む。大麦や小麦を蒸して糖化させる本格的な造り方も可能だが、多くの人たちは大麦やホップのエキスが缶詰となったビールの素を規定量の水を加えて煮込み、さらに水を加えて酵母を振りかけ、1週間ばかり発酵させる簡単な方法で楽しんでいる。

タイベ・ビールは、1516年のドイツの「ビール純粋令」に基づき、大麦、ホップ、酵母、水の4つの原料だけを使った製法を守る。水は近くの泉からパイプで引き入れている。ところが、夢が花開いたのも束の間、紛争が状況を一変させた。当初は年間100万人にも上った観光客やイスラエル人を相手に醸造所経営は順調だった。紛争の激化により、イスラエルやパレスチナから観光客が遠のき、政治的な理由からパレスチナのビールを飲むイスラエル人も消えてしまった。経営は悪化してみるみるうちに赤字に転落した。米国の家族がビジネスで得た資金で経営を支えていた。

それでも、共同経営者のダビドゥク・ホーリー氏は当時、「いずれの民主的な国にもうまいビールがある。ここには何か欠けていた。ビールがないのだという想いで醸造所を始めた。占領が終われば、巨大な経済が目覚めるだろう。その時を待っている」と語っていた。

今、パレスチナはどうなっているか、13年ぶりに4年間を過ごした地を訪れた。第2次インティファーダ(対イスラエル抵抗闘争)が吹き荒れていたヨルダン川西岸では、分離壁が建設され、武装闘争も当時のような激しさはない。西岸の中心都市ラマラは、自治政府が治安を掌握して比較的安定し、西岸のナブルスやジェニンなどから実業家や住民が富や情報、安定した生活を求めて移り住み、人口は増えている。

高級ホテルやレストラン、バーが相次いで開業し、夜ともなれば、若者たちで賑わう。故アラファト議長にインタビューした議長府の執務室などは博物館になっていた。イスラエルのミサイルによって暗殺されたイスラム組織ハマスの精神的指導者ヤシン師らは、絵画となって博物館の一室に飾られていた。筆者が見た時代は、歴史の一コマとして閉じ込められた。

タイベ・ビールも経営が青色吐息だった13年前の状況とは、様変わりしていた。日本や米国などにも輸出しているほか、エルサレムやイスラエル、キリスト教聖地として多くの外国人観光客が集めるベツレヘムでの消費も好調だ。筆者が訪れたラマラのバーでも、若者たちや外国人観光客らが素焼きのマグカップに注がれたタイベの生ビールの味を楽しんでいた。

タイベ村でのホーリー一族の事業拡大ぶりは目覚しいものがあった。ビールの醸造設備が増設されたのは業績の拡大を受けて当然だが、そこから得られた収益を投じて、立派なホテルが建設されていた。訪れた日は、外国人観光客で満室の盛況ぶり。夕食の用意でナディム氏の奥さんらが大わらわだった。さらにホテルに隣接してワイン醸造所も設けられ、ヨルダン川西岸の在来種のブドウを使った醸造も行われていた。

こうしたワイン造りに乗り出した背景には、紛争という事情がやはりあった。今でこそ、バイツェン・ビールの原料として地元産の小麦やオレンジピール、コリアンダーを使っているが、なお大半の原料を輸入に依存している。原料はイスラエル経由で輸入するため、治安上の理由で何週間も留め置かれたり、輸送費が拡大したりして経営を圧迫してきた。パレスチナは古来より、ブドウの栽培が盛んだ。このため、ワインならこうした障害を回避し、農業に従事する人たちにも貢献できるのではないかと考えたためだ。従来、パレスチナの農家は、イスラエルのワイン生産者に買い叩かれていた。それが今では、正当な値段でホーリー一族が買い取り、周辺の農業にも寄与することになった。

ただ、ワイン造りにも障害は少なくない。ヨルダン川西岸で拡大したり、増えたりしているユダヤ人入植地は、タイベ村の近くにもある。一族の農園の一部は、イスラエル当局によって治安上の理由で立ち入り禁止になった。イスラエル軍に銃撃されるのを恐れて、近づけなくなった農地は荒れるに任されている。

このように困難は少なくないが、一族の熱意は衰えることを知らない。ホテルの1階を改装してビール醸造施設を持ったバーを建設する予定だ。さらに、中東の伝統的な酒であるアラクなどの蒸留酒を醸造する施設も近くにほぼ完成し、近く仕込みに入る。ホーリー一族の取り組みは、雇用も生み出し、しっかりとパレスチナに根付いていた。

これに刺激されたのか、ヨルダン川西岸では、ラマラ近郊のビルゼイトに新たな醸造所が誕生し、シェパードのブランドでラガーやIPA、バイツェンなど多様なビールを造っている。ここでも隣接したレストランを建設予定で、将来的には鮮度のあるビールを楽しみながら食事が取れるようになるという。パレスチナでは今、2つの地元ブランドが競い合っている。

キリスト教徒や外国人観光客という比較的小さなマーケットながらも、ヨルダン川西岸のビール文化は花開いた。ラマラを中心としたヨルダン川西岸は、表面的に見れば繁栄しているように見える。だが、製薬会社を経営するハマド・マスリ氏は「自治政府や援助のカネが回っているだけだ。真の経済と言えるようなものは西岸には存在しないに等しい。イスラエルが課す制約に加えて、西岸の経済規模は小さく、輸出産業を育てなければ、発展は望めない」と指摘する。

13年ぶりに訪れたヨルダン川西岸は、落ち着きを取り戻し、都市は賑わいを取り戻していた。その一方で、イスラム組織ハマスが実効支配するガザ地区は、ますます困窮を深めている。パレスチナ内部の政治混乱や、イスラエルの右派政権の継続、イスラエル寄り姿勢を強める米国のトランプ政権という外的な要因もあり、パレスチナ国家への希望が見えない失望や欲求不満が漂う。それでも、人々は懸命に日々の暮らしをつないでいた。

 

 

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